2006年08月19日

アルファ・ロメオとは

アルファ・ロメオとは
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アルファ・ロメオ (Alfa Romeo) は、イタリアの自動車製造会社である。
アルファ・ロメオの自動車製造会社は、ミラノ市の白地に赤い十字架とヴィスコンティ家の紋章であるサラセン人を呑み込む大蛇を組み合わせた楯を表現したフロントグリルを持つ、独特の顔立ちで知られ、フィアットの傘下となって久しい今日でも、その外観の独自性は失われていない。


また、アルファ・ロメオのレース部門のドライバーであったエンツォ・フェラーリは後に独立し、フェラーリ社を設立した。
彼が自分の車でアルファ・ロメオに勝利したときに、「私は自分の母親を殺してしまった」と語ったという。


アルファ・ロメオは、現在はフィアット傘下において、ブランドイメージのスポーツ性を前面に出した車の開発、生産を担っている。


アルファ・ロメオの歴史

アルファ・ロメオの栄光の発端

アルファ・ロメオとなって以後のエンブレム1910年、経営危機に喘ぐフランス・ダラック社のイタリア工場、「ダラック・イタリアーナ」をミラノの企業家集団が買収して創立した A.L.F.A. (Anonima Lombarda Fabbrica Automobili) 即ち「ロンバルダ自動車製造株式会社」(ロンバルダとは「ロンバルディアの」の意)を発祥とする。


今に続くミラノ市章の赤十字とかつてミラノを支配したヴィスコンティ家の家紋に由来する人を飲み込む大蛇(竜という説もある)を組み合わせた同社のエンブレムには、当初「ALFA MILANO」の文字が刻まれていた。
記念すべき最初の生産車は高性能な「24HP」で、A.L.F.A. はこれを武器に創業1年にして早くもレースを走り始める。


1918年にナポリ出身の実業家ニコラ・ロメオ (Nicola Romeo) が同社を買収し、ここにアルファ・ロメオ のブランドが誕生する。
正式な会社名はニコラ・ロメオ技師株式会社とされた。


かの自動車王ヘンリー・フォードは「私はアルファ・ロメオが通るたびに脱帽(Hat Off)する」と言ったといわれるが、これはアルファ・ロメオに対する賞賛であると同時に、生産効率に左右されることなく、少数生産、超高価格販売政策のもとで理想の車づくりに邁進できた同社への皮肉めいた羨望であったかもしれない。


アルファ・ロメオの国有化、そして戦火へ

1933年に世界恐慌に端を発する経営難と政治的圧力からイタリア産業復興公社(IRI)の支配下に入り、事実上国営化される。
その背後には当時イタリアを支配した独裁者ムッソリーニが深く関わっていたといわれる(ミラノで政治基盤を確立したムッソリーニはアルファ・ロメオを愛用していた)。

高い技術力を持つ同社は国策によって軍需産業に組み入れられ、本業のレーシングカー、スポーツカーの製作もそこそこに航空機用エンジンをはじめとする兵器製作に力を注ぐことになる。


1943年、ポルテッロ(Portello)にある本社工場が連合軍の3度にわたる空襲によって廃墟と化す。


アルファ・ロメオの転機・量産メーカーに

1947年、戦前の高級スポーツカー「6C」シリーズの生産を再開。
そしてカロッツェリア・トゥーリングの手になる美しいボディをまとった「6C2500」が、ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスで優勝。世界一優美な車として賞賛された。
これを記念して、このタイプは「6C2500 Villa D'Este」と呼ばれる。


1948年に、経営母体をIRI(イタリア産業復興公社)のまま「アルファ・ロメオ・S.P.A.」に改組する。


アルファ・ロメオは、1950年、超高級・高性能スポーツカーやGTを少数生産するという戦前までのスタイルを自ら捨て去り、新型の「1900」シリーズを引っさげてより確実な利益を見込める大衆量産車メーカーへと転身した。

しかしながら大衆車であるはずの「1900」にも、新開発の4気筒DOHCエンジンをはじめ、レースカーで培った高度な技術を惜しみなく投入して開発されていた。このプライドが後に経営を圧迫していくことになる。


アルファ・ロメオは、1954年、名車の誉れ高い「ジュリエッタ」シリーズがデビュー。

最初にセダンボディではなく、スポーツモデルの「スプリント」が登場した。

無論、諸事情があってのことだったが、これもアルファ・ロメオらしいエピソードと言える。

エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1300CCの小排気量ながら最高時速160キロという、当時としてはかなりの高性能車だった。
「ジュリエッタ」は、ファミリーカーとしても成功を収める一方、その素性が買われ、多くのエントラントの手で数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスやドイツの小型車と激戦を繰り広げた。
高性能な実用量産車という現在のアルファ車のイメージは、この頃に確立されたと言える。


アルファ・ロメオは1962年、この年、本拠地がミラノ郊外アレーゼへと移された。
そして戦後アルファのイメージを決定づけた「ジュリア」シリーズがデビューする。
この車もまた、高性能DOHCエンジン、5速ミッション、4輪ディスクブレーキなど当時としては先進的な機能の搭載によって、同クラスの車と比べても高い性能を誇った。
G.ジゥジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。「アルファ・ロメオ」と聞けば、まずこのジュリア・クーペをイメージする人も多い。



アルファ・ロメオの「ジュリア」シリーズは、十分な新車開発投資ができないこともあり、排気量の増大によって排ガス規制も乗り切り長期にわたって生産された。

特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」はクーペの生産終了後、完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、マイナーチェンジを繰り返し、フィアットの血を入れた新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。


アルファ・ロメオの乱流の時代

1971年、アルファ・ロメオは、商工業が集中する北部(ノルド)に比べ、農業中心で貧しかった南部(スッド)の雇用創出と経済格差是正という国策に従ってナポリのポリミアーノ・ダルゴに進出、同社初のFF(フロントエンジン・フロントドライブ)小型大衆車「スッド」をデビューさせた。

「スッド」は廉価モデルでありながらボディ・デザインを「ジュリア」で功績のあったG.ジゥジアーロに託し、スペース効率を上げるために新開発の水平対向エンジンを採用するなど大変意欲的な車で、技術的にも性能面でもアルファの名に恥じないものだった。
フロントのオーバーハングにエンジンを低くマウントすることで、後輪駆動のジュリアシリーズ以上のコーナリング性能を手に入れたのである。


市場に大いなる賞賛を以って迎えられた「スッド」であったが、南部労働力の質的問題と、コストを下げるために使用した質の悪い鋼板によって、「スッド」は結果的に低品質車のレッテルを貼られ、アルファの品質的なイメージをさらに低下させてしまうこととなった。
1983年登場した後継車「33」では、品質の問題はかなり改善されたが、この問題が影を落とし、国外でのセールスが伸び悩んだ。
なお、このナポリ進出以降、エンブレムの「ALFA-ROMEO MILANO」から「MILANO」の文字がはずされている。


アルファ・ロメオは1972年、ミラノのアルファ・ロメオから、大成功を収めた「ジュリア」の後継となる新型ファミリーセダンがデビューする。

かつてF1GPで活躍した「Tipo158/159」の愛称を引き継ぎ「アルフェッタ」と名づけられたこの車は、その名のとおりGPカー譲りの高度なメカニズムを持っていた。

高性能DOHCエンジン、対地キャンバー変化の少ないド・ディオンタイプのサスペンション、バネ下重量軽減に効果のあるインボードタイプのリア・ディスクブレーキ、車両の前後重量配分を最適化するためのトランス・アクスルタイプのドライブトレーンなど、これらは何れも車の運動性能・走行性能を高めるための仕掛けで、これらがスポーツカーならいざ知らず、ごくごく普通のセダンに採用された点がアルファの面目躍如と言える。

しかしながら、設計の古いエンジンの性能を落とすことによる排ガス規制対応、意欲の低い生産ラインにそぐわない高度でコスト高の設計、当時の世界的な水準から大きく劣った品質は、財務体質を改善するに至らず、さらにアルファの凋落を進めたとも言える。
このシリーズの設計を活かして各種競技に使われたが、やはり機械的信頼性の低さから、ラリーではトラブルによるリタイヤで終わった。


「アルフェッタ」の基本構造は下級車種「(新)ジュリエッタ」、そしてそれらの後継の 「75」に引き継がれたが、度重なるストライキで労働意欲が低下し、製造技術も世界標準から大きく劣ったアルファ社にとって、これまで以上に凝ったコスト高の製品は、アルファの経営を圧迫することになった。

元来、作業性や生産効率を二の次とし、性能重視、悪く言えば行き当たりばったりの辻褄あわせの設計が多かったが、そのような量産車メーカーが存続できない時代に対応できなかったこと、それをブレイクスルーできる人材にも恵まれていなかったのがアルファ社の悲劇であった。

1990年代初頭に、カロッツェリア・ザガートとのコラボレーションで限定生産されたES30(SZ/RZ)は、スポーツカーとしての素性の良さで評判が高かったが、後輪駆動アルファの最後のあだ花となった。

1984年には日産自動車と提携し、合弁会社「A.R.N.A.(AlfaRomeo and Nissan Automobili)」を設立。

共同開発車アルナを生産した。
この車は日産の大衆車「パルサー」の車体にスッド由来の水平対向エンジンを搭載したもので、シャシーはもちろん、外観上もフロントにアルファ伝統の盾型グリルが着くほかはパルサーそのもので、イタリア国内ではそこそこ売れたものの、スタイリングは酷評された。
しかし、コーナリングはスッド以上だったという証言もあるのが興味深い。

日本国内でもこの提携に呼応して「パルサー・ミラノX1」というグレードが設定され、日産ディーラーにアルファ・ロメオのエンブレムが躍ったが、それはイメージ戦略以上の何物でもなく、マーケティング上は双方にもたらすものはほとんどなかった。
このプロジェクト自体は結局失敗に終わったが、アルファ・ロメオは日本メーカーの持つ高度な生産システムと品質管理について多くを学んだ。


アルファ・ロメオ、フィアットと共に・再び繁栄が

1986年、長く続く苦境ゆえに筆頭株主であるイタリア政府が株の売却を決定し、量産車メーカーとして覇を競ったフィアット社が引き受け、その傘下に収まることとなった。
海外の自動車メーカーへの売却も有力であったが、採算を度外視してフィアットが引き受けたのは、イタリアの誇りであるメーカーの海外流出を嫌ったジャンニ・アニェッリの政治力が働いたともいわれている。

そしてフィアットは自社製品とのプラットフォーム統合を進める一方、唯一の資産であったブランドイメージの高揚に注力する。

前記のFR世代最後のモデル「75」、ES30が惜しまれつつ表舞台から退場する一方、フィアット買収直前に「ティ−ポ4」計画の一環として登場した「164」、買収後の「ティーポ3」計画から誕生し、DTM(ドイツツーリングカー選手権)やBTCC(英国ツーリングカー選手権)等でその名を轟かせた「155」、その派生型として、独創的なフォルムに纏われて登場したパーソナルモデル「スパイダー/GTV」、155の下級モデルでいながら、各々3ドアハッチバックと5ドアハッチバックセダンという独自の車種展開で登場した「145」と「146」、164の後継車「166」が新時代のアルファ・ロメオの名を担った。


これらのモデルは、性能ばかりでなく、これまで未消化だった品質と信頼性の確保にも重きが置かれ、アルファ・ロメオの市場競争力を強めた。

そして1997年、「156」が登場。伝統に立脚した鮮烈なスタイルと高性能が1998年度のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを初めてアルファ・ロメオにもたらし、日本を含む世界の大半の市場で好評を得た。

さらに2000年に発表された「145/146」の後継車「147」も2001年度カーオブザイヤーに選ばれた。

以後、156のクーペ仕様「GT」が登場、2005年には147がフェイスリフトを受け二代目になる。そのほかV型8気筒エンジン搭載の「ブレラ」、156の後を襲う「159」が本国で発表されている。



草創期
1921年発表の「RL」シリーズが公道レースやヒルクライムレースで大活躍、アルファ・ロメオはレーシングカーメーカーとしての頭角を現わす。

有名な「クワドリ・フォリオ(四葉のクローバー)」が初めてマシンに描かれたのは1923年の第14回タルガ・フローリオの時。マシンは「RLタルガ・フローリオ」で、ウーゴ・シボッチのドライブで見事に優勝し、その後このマークはワークス・チームのシンボルとなった。


やがてエンツォ・フェラーリが同社にレーシングドライバーとして参加。
さらに天才エンジニア、ヴィットリオ・ヤーノがフィアットを辞して加わったことで、名レーシングカー「P2」が誕生。
真紅のマシンはレース界を席巻し、後継の「P3」の登場に及んでレーシング・アルファの名声は決定的なものとなった。
さらにヤーノはレースカーの血を受け継ぐ高級スポーツカー「6C」「8C」シリーズも手がけ、アルファ・ロメオは市販車部門でも王侯貴族が憧れるスーパー・スポーツカー・ブランドとして君臨する。


アルファ・ロメオのグランプリ参戦

1936年、ナチス・ドイツの威信をかけて開催されたドイツGPで、アルファ・ロメオのセミ・ワークス・チームスクーデリア・フェラーリからエントリーしたタツィオ・ヌヴォラーリが旧式のアルファ・ロメオ「P3」を駆り、並み居るドイツ勢を振り切って優勝。
モータースポーツを国威発揚に利用しようとしたヒトラーを歯噛みさせた。

当時のメルセデス・ベンツやアウトウニオン(現アウディ)らドイツ勢は、ヒトラー=ナチスから政治的意図による潤沢な資金を得て、高い開発力と技術力に裏付けられたモンスターマシンを繰り出してレース界を席巻していた。
対して、イタリアのナショナルチームとして位置づけられながらもその資金は十分なものでなく、アルファ・ロメオはドイツ勢に対抗できるような戦闘力を持ったマシンを開発できないでいた。

この時の勝利はイタリア中を熱狂させたものの、アルファ・ロメオの勝利ではなくタツィオ・ヌヴォラーリの神がかり的な技量に支えられたものであった。
ドイツの勝利を疑わないレース主催者は勝者をたたえるイタリア国歌のレコードを持っておらず、ヌヴォラーリ自らが持参したレコードで面目を保ったという。

イタリア人の期待を一身に背負い、しかし国からの援助もなく、資金が枯渇して開発のままならないマシンで孤軍奮闘するチームは、こうして一時の美酒に酔うが、それもこのときまでだった。
その後、アルファ・ロメオのレーシング部門では政争が渦巻き、ヤーノが、フェラーリが去っていった。やがて戦争がすべてを覆い尽くす。

アルファ・ロメオ 参戦年度 1950 - 1951 , 1963 ,1965 , 1979 - 1985

出走回数 112

コンストラクターズタイトル 0

ドライバーズタイトル 2 (1950 , 1951)

優勝回数 10

通算獲得ポイント 50
表彰台(3位以内)回数 26
ポールポジション 12
ファステストラップ 14
F1デビュー戦 1950年イギリスGP
初勝利 1950年イギリスGP
最終勝利 1951年スペインGP
最終戦 1985年オーストラリアGP


アルファ・ロメオのF1世界選手権への参戦
1945年、第二次世界大戦が終結すると、空襲を避けるためにミラノ北方オルタ湖近くの乳製品工場に隠しておいた戦前のGPマシン「Tipo158」を持ち帰り、復活したGPレースで早くも大活躍を見せる。

その後、1950年にはじめてF1世界選手権が懸けられると、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジュゼッペ・ファリーナらが「Tipo158」を駆り、7戦7勝という圧倒的な強さでシリーズを征し、ファリーナが初代F1王者となった。

1951年、この年もGPで「Tipo158」の改良型、「Tipo159(アルフェッタ)」が大活躍したが、アルファ・ロメオを離れて自らの名を冠したレーシングカーでGPに挑戦するフェラーリにイギリスGP(シルバーストーン)で初めて敗北を喫する。この時のエンツォ・フェラーリの言葉、「私は母を殺してしまった」はあまりにも有名。

シリーズチャンピオンはこの年もアルファ・ロメオとファンジオのものだったが、資金難を理由にこの年限りでF1GPレースから撤退してしまう。

最終期は自社マシンの開発もままならず、先に撤退したライバルランチア製のマシンを導入せざるを得ない状況であった。
このマシンは同様に自社マシンの開発が頓挫していたフェラーリに譲渡され、皮肉な活躍を見せることとなった。


アルファ・ロメオのモータースポーツ活動再開

1966年、天才カルロ・キティ率いる「アウトデルタ」を事実上のワークスチーム化して「ジュリアGTA」で欧州ツーリングカーレース選手権を戦い始める。GTAは「アウト・デルタ」監修のもと、クーペボディをスチールからアルミ製に換装して200kgの軽量化を達成したレーシング・スペシャルモデルだったが、少数ながら市販された。これにワークスチューンを施した車は「GTAコルサ」と呼ばれ、期待通りにライバルのBMWらを蹴散らしてサーキットを席巻した。

他方、ポルシェなどが参戦するグループ6(スポーツカーレース)カテゴリに興味のあったアルファ=アウトデルタは2リッターV8エンジンをミドに搭載したレーシングプロトタイプ「Tipo33/2」を1967年に開発。驚くべきことに、アルファ・ロメオはこの純然たるレーシングカーにフランコ・スカリオーネがデザインした溜息が出るほど美しいボディシェルを被せ、公道走行モデルとして、ごく少数ながら市販してしまったのである(その数16台といわれる)。
「Tipo33/2ストラダーレ」と呼ばれたそのモデルには当時のフェラーリの10倍とも言われるプライス・タグがつけられた。

1973年、グループ6のレーシングカー・プロジェクトは水平対向12気筒エンジンをチューブラーシャシーに架装する「Tipo33/TT12」に発展し、トップカテゴリで活躍した。こうして戦後レーシングシーンにおいても華々しい成功を収めたことで、戦前の栄光を知らない世代にも新しいアルファのレーシングイメージが浸透していった。


アルファ・ロメオのF1への復帰
1976年、「Tipo33」の水平対向12気筒エンジンはイギリスに本拠を構えるF1チーム、ブラバムに供給されて「ブラバム・アルファロメオF1チーム」としてGPを走ることになる。とびきりのパワーがある反面、重く燃費の悪いエンジンにチームは苦労するが、1978年には前年のワールドチャンピオン、ニキ・ラウダを擁して優勝している。

1979年、ブラバムチームとの契約を終え、いよいよアルファ・ロメオは自社開発のF1マシンでGP復帰を果たす。
しかし慢性的な資金不足によって開発は思うに任せず、このF1プロジェクトは消化不良のまま1985年に打ち切られた。そのころすでに会社は存続の危機を迎えていた。
posted by en at 15:24| ネットエトセトラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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